脳内がしこたまメルヘン

脳内が女子高生的メルヘンでいっぱいな男の子がおりました。
芥川龍之介とか夏目漱石がしてたみたいな古臭い小説作法を
ちゃんと守るのが「良い小説」の書き方だとか思ってたやつで。


彼も世間に遍き発芽したての文学青年と同じく、
人生のなかでも比較的早い時期に、
「群雲が月を覆った。」
なんて仰々しい書き出しで、
ストーカーに悩む会社員(女・二十代)を20枚くらいものして、
W大の文芸サークルに持ち込みしまして。


しかもそこそこ褒められた。
本人評価額の二割り増しくらい。
語り口と物語の軋みに先輩方が目をつむってくれたのでした。
そうして図に乗って不遜になった彼。


善良な市民の迷惑になるので、
原稿ともどもすぐに僕が抹殺しておきましたが、
当時の彼がすごく感慨に耽った先輩のひと言に、
「タイトルが秀逸」というのがありました。


「向き合う」なるお題で書かれた「向き合う」という小説で、
物語の冒頭で会社員(女・二十代)は残業帰りに、
道を歩きながら「尾行されてる感」を味わいます。
それからしばらく、決まった曜日にそれを何度も味わいます。
彼女はそれを怖がった。
彼女はそれを不審者(男・四十代?)だと勘違いして、
警察とかを呼ぶのも大仰な気がして、
同僚(女・二十代)に防犯対策を教わったりなどしつつ、
毎回「今日こそ振り向こう」と思う。けど無理。やっぱ無理。
先輩が「これ『向き合う』だよ〜」なんて言ってくれて。


で、ある日。ついに不審者が尾行に飽きて接触を試みてくる。
怖い。逃げる。追われる。逃げる。追われる。肩をつかまれる。
「怖ッ」と思ってたら背後で(男・四十代?)のうめき声がして、
振り向くと、塾帰り(男・十代)が野球のボールで、
不審者(男・四十代?)を退治してくれてたっぽい。
先輩が「これも『向き合う』だよ〜」なんて言ってくれて。


流れ的に塾帰り(男・十代)を家に連れ込んで事情を聞くと、
どうやら毎週の「尾行」は塾帰り(男・十代)の仕業で、
不審者(男・四十代?)は急襲した異物のようだ。
彼が助けてくれたのだ。
ここ数ヶ月あんだけびびってたのに、
なんだか不意に嬉しい会社員(女・二十代)。
買い置きしといたプリンをご馳走してしまっている。
先輩が「これも『向き合う』だよ〜」なんて言ってくれて。


会社員(女・二十代)「そういえば名前は?」
塾帰り(男・十代)「(同僚(女・二十代)の弟の名前)です」
会社員(女・二十代)(さて、これからこいつをどうしようか)
というオチ。
先輩が「これも『向き合う』だよ〜」なんて言ってくれて。


……。


けど、先輩、ごめんなさい。
「タイトルはてきとー」です。まったくもって。
脱稿or起稿した当時の語感が「好いね」とゆった単語をてきとーに拾っただけ。
というか、なんか、実作にしばらく携わった身として最近ひしひしと感じるのは、
タイトル自体に深い意味とか物語全体の統一なんてぜんぜんなんてなくて、
実は書き手もそんなこと大して考えてないようですよ。
わざわざそんなことするのは僕はなんか大げさな気がしますよ。
タイトルと本文で二度同じ物語を語ることになるわけだから、くどい気がしますよ。


まぁそこは好き好きだろうけど、というわけで。


このブログの数少ない読者の方々もみんな小説書いてみたらいいよ。
ブログでささっと語り切れちゃうくらいの薄っぺらい物語でも、
ちゃんと読んでくれる先輩がいますよ。
お座なりに流し読みして「うん。好いよ〜」で終わらずに、
ちゃんと読んでくれる先輩がいますよ。


あなたの書いた小説に対する礼儀としても、
過去に書かれた幾多の小説に対する礼儀としても、
当然褒められるべき箇所は褒める。
指摘されるべき箇所は指摘する。
敲くべき箇所は敲く。
けどそういう風に、
ちゃんと読んでくれる先輩がいますよ。


どう、書かない?