write for read

・『トリップ』(角田光代
小説の書き手が世間の人らに伝わりやすいように、わざわざ日常の言葉遣いを小説に取り入れているのは、実は読み手のためにではない。
自分の心の真ん中にぽっかりと空いた冷たくて深くて暗い穴(=狂気?)に呑み込まれないように、日常に自分をしっかりと繋ぎとめて置くために、小説の書き手たちは今日も「まじでー」とか「無ぇわー」とか「ざけんなてめー」とか書くのだ。虎穴にいらずんば虎子を得ず。とはいえ帰って来れなかったら元も子もない。


・アクロバット前夜(福永信
その一文が書かれるまでにたとえ100文書いてあったとしても、1000文書いてあったとしても、それまで書かれた文すべてをぶっ壊さない保証はどこにもない。それまで書かれた文すべてを飛躍的に革新する可能性も皆無じゃない。
「なんて嘘ぴょん♪」と書きたい欲求にかられないような人は似非だし、書くようじゃ二流。


谷川俊太郎コスモロジー
「詩を論じることはできない。詩を学ぶことはできない。詩を教えることはできない。詩を使って何かすることもほとんどできそうにない。詩について何かいろいろにできそうな感じはするけれども、すくなくともそれを論じたり、学んだり、教えたり、使ったりすることは無理ではないかと思える。でも、ふりかえってみると、谷川俊太郎の詩を、ではなくて、谷川俊太郎の詩からずいぶん何かを学んできたし、(後略)」(『谷川俊太郎論 日本語が体験する世界の拡がり』(藤井貞和)より)