荻世いをらの鮮烈な風景とその手触り

「商店街のような、そうでないような、車が一台半ほど通れる中途半端な広さの道が続いている。空気が澄んでいて夕陽は透明であり、そのくせ色々の影は脂っこい黒さでそこかしこに潜んでいるから、なかなか開けた場所なのにも拘らず、これらの景色にはまったく明るい印象を受けない。スーパーから手ぶらで初老の男性が出てくる。この人万引きをしたんじゃないだろうか、などと俺は思うが、なんの根拠もない。その向こうから女子中学生が、ストラップの大量についた携帯電話を、手首を撓らせぶら下げながら歩いて来る。小さな手とその太い束が不安定ながらも繋がってしまっているような、どこか奇形の類に見えて少し恐い。スーパーの横にあるクリーニング屋の前で婆さんが白黒の猫を抱えて立っている。嬉しそうな哀しそうな曖昧な顔をしているが、たぶん、どちらでもない。」(『さようなら風景よ、サヨナラ』より)



まず、「なんの根拠もない」とか「たぶん、どちらでもない」というひと言がすごい。
風景を解釈・理解しようとする読み手をぶっ飛ばす一撃。
突き放された読者は、「俺」と一緒に書かれている風景をただ見ることになる。
だからその時に見える情景の剥き出しな感じが映える。ちょっと静物画っぽいくらい。
この後もうしばらく、引用文の三倍くらいの風景描写が続いて、



「だからといってどうするわけでもなく、ただそれらの猫を見ていると、突然ふらりと眩む。それでようやく、すっかりと猫に見入っていたことに気がつく。」(『さようなら風景よ、サヨナラ』より)



少し前の文でこの猫はほんとうに鳥肌が立つくらい生々しく描写されているので、
できることなら、こんなちゃちな引用とかじゃなくて買って読んで欲しい。
提灯記事だとかなんだとか思われるかもだけど、
でも好いものは好いと(なるべく大声で)言いたい。
次。



「中に入ると、生臭いにおいが腹の底まで重く潜り込んでくる。ただでさえ光が入らないのに洗面台の蛍光灯以外は何も点いていない。部屋はほとんど真っ暗で、蠅が何匹も飛んでいる音がするのだが、どこにいるのかわからない。生ゴミのある方向はわかる。
 口の中が気持ち悪い感じがするので洗面台でうがいをする。何回か水を吐いた拍子にいきなり前歯が一本抜け落ちた。蛇口を回しっぱなしにしていたので、落ちる音すらも掻き消されてあっと言う間に見えなくなった。一本抜け落ちただけで口の中が全く別の雰囲気になる。安物の刺し歯だった。
 水を止め、配水管のS字部分を外してみるものの、見つかるわけもなく、ただ足元がびしょ濡れになっただけである。」(『さようなら風景よ、サヨナラ』より)



狂人とか異星人とか殺人鬼が登場する小説は数あれど、
この歯が抜ける描写の寒々しさに匹肩するようなものはそうないんじゃないか。
「日常に潜む鳥肌が立つような瞬間を見事に描き出している」
みたいな紋切り型な褒め方しか、
いまの僕にはできないけど。


……。


そうして「俺」の感覚は小説が進むに従って
どんどんふにゃふにゃになっていく。
日付けとか時間の手触りがぐんぐん曖昧になっていく。
古井由吉さんといういまはもうお爺ちゃんが、小説に、
歳を取るとものの見え方が変わって、
近くにあるものも遠くにあるものも、
おんなじ距離感というか感触で見えるから、
日常が常に冒険だ(苦笑)
みたいなことを書いていた気がするけど、
三十で職もない「俺」に流れる時間が寒いくらい速く進むのが、
読んでるとひしひし伝わってきて、ちょっと怖くもなる。



「色々なことを思い出せなくなってきている。異常に記憶が曖昧になっているのだけが確かにわかる。それがいつ頃なのかやっぱり思い出せないけれども、最近などは風呂に入っているから余計にそのことを感じさせられる。シャンプーをして、体を洗って、シャンプーをしたか覚えていない。で、念のためにシャンプーをする。たぶん、気づかずに三回くらいしているに違いない。」(『さようなら風景よ、サヨナラ』より)



物語が進むに連れて、生老病死系のけっこう大きな出来事も起こるんだけど、
そのどれもが現実感がない。いや、違う。
たぶん、強烈な心の揺さぶりがないというだけで、
これは紛れもなく現実なんだ、
「現実感」なんて、幻想だ、とすら僕は思った。




「日が落ちてすっかり冷たくなった空の低いところを鳥のような虫のようなのが影になって飛んでいる。早くて残像まじりでしか見えないが、たぶん大きい蛾だと思う。」
(『さようなら風景よ、サヨナラ』より)




この小説の幕切れはいかにも作り物めいていて、
拍子抜けする人もいるだろうし、
身震いする人もいるだろうし、
がっかりする人もいるだろうけど、
今日はここまで。
続きは書店で『東京借景』を買って下さい。
それか早稲田文芸会の部室に初出誌があるので、
そいつを読みに来てください。


……。


(けっきょく一日二回も更新している。春休みだから良いんだけど。
そのうち『NANA―ナナ―』(矢沢あい)のことが書きたい。
まだ10巻までしか読んでないけど、なんか、すごい面白い。)