なおやくんとおさむくん(読書会のお知らせ)

明日も読書会ですよ。


先週土曜日の読書会は幹事長の乱心で論が空転しましたが、
日曜日は新入生が一人しか来て(なくて衝撃を受け)たんですが、
明日も読書会をします。メインは太宰治
因縁の仲たる太宰治志賀直哉と、
あと高橋源一郎も読書会用のレジュメに引用されてたかな。


高橋源一郎と言えば、
デビュー作で志賀直哉大先生をこっぴどくこき下ろした人として、
業界関係筋では伝説となっています。引用可能な部分だけ、ちらっと。
たぶん誤解を招くと思うけど、
誤解の総体が大いなる理解になるかもしれないし、
誤解の総体が大いなる誤解になるかもしれないから、
まぁ、いいや。
ジョン・レノンVS火星人』より。

わたしは悲しかった。
わたしは「現代名文全集」に必ず載っている「城の崎にて」の哀れな蜂の死躰のように悲しかった。
わたしが蜂だったら、絶対に志賀直哉の前では死ななかったのに。
蜂さんたち! どうせ死ぬならリチャード・ブローティガンの前で死ねば良かったのだ。


なんか知らぬけど世界中で愛されてるっぽいM上春樹さんのと違って、
源一郎さんの小説はただでさえ誤解→拒否→無視が多いから、
やっぱりいちおうフォローをしておくと、


明治維新以降の普通教育が画一的に推進していた道徳教育の模範的な振る舞いっぽい、
蜂というちっぽけな命だけれど、そのちっぽけな死は淋しい、
とかいう「私」の気持ちが『城の崎にて』には書かれいます。


けどそういう振る舞い方って、見方によっては、
「善良で倫理的で思いやりのある人」とかいう不動の立場から一歩も動こうとせずに、
「カワイソーネー」なんて高みで左団扇する余裕のある、
恥知らずなリア充の軽率な感傷だとも言えてしまうわけです。
その人が常に「良い人」なせいで周囲がいっつも「悪い人」になってしまうわけですから。


一方リチャード・ブローティガンはと言うと、
彼のデビュー作『アメリカの鱒釣り』にこういう描写がある。

男は仲間を食うのに余念のない一匹の鼠に近づき、その頭にピストルをつきつけた。鼠は身じろぎもせず、ひたすら食いつづける。撃鉄がカチリと上げられると、鼠は噛むのをちょっとやめて、ちらっと横目で見た。まずピストルを、それから男を。「おいらのかあちゃん若いときにゃ、ディアナ・ダービンみたいに歌ったんよ」とでもいっているような、なんかこう親しみをこめた目つきだった。
男は引き金をひいた。
やつにはユーモアのセンスなんてないんだから。


志賀直哉を引用しない僕も卑怯だとはいえ(だって長いんだもん)、
何かや誰かが死ぬことに対する、
わずかだけど厳然とした違いが二人には見える。


ブローティガンは、誰かや何かが死ぬことの、
どうしようもない滑稽さを知っている(かのように書けている)。
いきなり、しかもさりげなくやって来る死の瞬間の、
なんかこうユーモアとかに逃げ込みたくなるような
取り返しのつかなさを知っている(気がしてくる)。


というのを踏まえつつ読むと、
直哉とリチャードの「死」の捉え方の差を数行で語り切った、
という一文の密度だけではなくて、


「名文」=「整理された読みやすい分かり易い文」だと思い込んでる、
世間の「名文全集」読者の無自覚な向上心に、
滑稽味を濃い目にして釘を刺すという芸当まで、
さっき引用した数行で高橋源一郎はやってのけてるのだ。と言える。


しかも、いま言ったみたいなことを計算づくで書いてるわけじゃなくて、
たぶんほとんど本能的に、身体の延長としての言葉をフル稼働させて、
「志賀→名文→蜂→イヤ!→逆に→ブローティガン→好いね!」
くらいの瞬発力でもって、一気阿世に書いている。


結果生まれたものすごい強度の(連想や思考をぐぃっと呼ぶ)文章ですよ。


で、まぁここまで書けば、太宰治がどっち側の人かは、
読んだことない人でもなんとなく分かるかなと思います。
(分からなかったら単に僕の説明不足です。)


というわけで、明日は読書会です。
詳しい日程は、4/18(土)13:00〜 @W507です。
場所が分からなかったら、部室(E728)に顔を出してみて下さい。
幹事長は明日はなるべく黙ってます。。。