渋谷出身読モ100人に聞きました!

僕が文芸サークルの幹事長になったと言うと、
まるで共産主義が音を立てて崩れ落ちて行く瞬間を
リアルタイムにテレビで見ていた時のように
驚いた顔をした友人がいました。


ところで、二十一世紀の日本にあっては現代文学も、
現代詩や現代思想や現代音楽や現代美術と同じように、
頭がいいのか頭がおかしいのか
見た目ではちょっと判別しにくいという人たちが、
横で聴いててもなんかついてけない専門用語で
お喋りをする「場」になっています。


競技人口はぜんぜん比べものにならないですが、
野球やサッカーや漫画やアニメやゲームや
成人男性向けDVD鑑賞と同じように、
年端も行かない右も左もわからない若者たちが
持て余した青春を消費する「場」になっています。


そういう「場」に居る僕が書き出しで使ったような、
「なんだかまるでぐったりした子猫を何匹か積み重ねたみたいに
生あたたかくて、不安定な」比喩というのは、
垂乳根(たらちね)の母」とか「ぬばたまの夜」みたいに、
比喩としての新鮮さが損なわれていない時季には
すごく鮮明にものごとを彩ることができるけれど、
使い古されたり、安易に連打されたり、
その比喩が手垢にまみれていることを使用者が自覚しないままだったりすると、
ものすごくダサい。業界用語的に、「寒い比喩」と言われるやつだ。


だから、「超very good」をちぢめてチョベリグと言ったり
「恋というものは」を「恋てふものは」とちぢめて言うのが
死語だと呼ばれるのも語感に適っていて、
こういう比喩は既に一度死んでいる。
それなのにこういうのを(30〜40年も)
流行に乗り遅れて(るのを知らずにあたかも最先端っぽい着こなしで)
使ってしまう若者を街で見かけると、正直、寒い。


もちろん「あしびきの」も「ちはやぶる」も
「春の熊くらい好きだ」も「人生とは一箱のマッチに似ている」も
「僕は深く安堵のため息を吐いた」も、
まったく価値がない、着る機会もたぶんもうない、
古着屋さんでも微苦笑されてしまうような装いかと言うと、
そうでもなくて、こういう言葉遣いは新鮮さこそ欠けるものの
コーディネートによっては≪定番≫として使えなくもない。


「グレーのパーカ=ありきたり」というわけではなくて、
そこは各人の腕次第なように、
「内気で無口な本好きの主人公=平凡」というわけではない。
佐藤友哉さんなんかは、村上春樹的比喩を使うに当たって、わざわざ輸入元のジェローム・デイヴィッド・サリンジャーまで訪ねていってモノを調達してくるんだから偉い。(微妙な褒め方だなぁ。。。)
舞城王太郎さんだってちゃんと夏目漱石まで遡ってるからやっぱり文章がびしっとしてる。


で、久米博さんが『言語的創造としての隠喩』で、
「生きた比喩」「死んだ比喩」ということを言っています。
彼曰く、哲学の伝統からすると、いま見たような、
比喩とかそういうレトリック(技巧)を駆使することは、
話をごまかしたりうやむやにしたり出来るから、不適切、非論理的だとされてきた。
ホッブスという哲学者なんか、欺瞞だとまで言っている。
(なぜだか粉飾決算という単語が頭に。。。)


例えばイチローは数日前から急に一部の人たちにとって「神」になったようだけど、
バスケットボール業界では長らくマイケル・ジョーダンが「神」であるし、
そもそも「神」=「何かしらに(同じ人間とは思えないくらい)抜群に秀でた人」
と言い換えられるから、こういうのは不適切な表現だということになる。
つまり哲学的に厳密な表現をするなら、イチローは「神」じゃない。
(で?っていう帰結だな、これ)


けど、世の中にはどうしても比喩(もののたとえ)でしか言えないことがある。
椅子の「脚」とか「天井」とか「下」心とか議論を「戦わせる」とか、
「精神」も「自然」も「世界」も「私」もきっとそうだ。
リア充」もそうかもしれない。「あぼーんする」もそうかもしれない。


みたいに、普段僕らは知らず知らず比喩を使っていて、
ぶっちゃけそれなしじゃまともに話ができない。
こういうのを難しく言うと、濫喩とか転化的比喩とか必然的隠喩なんて言い方になる。
で、こういう隠喩は「日常化、常套句化している」と久米さん。
「いわゆる死んだ比喩として語彙化され、特別に注意をひくことはない」と。


でもって、そういう日常的に使われている隠喩を巧みに駆使して、
より高度な・純度の高い・深い(=色んな意味を持ち得る)隠喩を生み出すのが、
詩人とか、小説家とか、(今どきの)哲学者なのだ。えっへん。みたいなことを言ってる。
彼はその例として、マルティン・ハイデガーとかジャック・デリダとかエマニュエル・レヴィナスとかの哲学者の著作を引用して、それからシェイクスピアという昔のイギリスの演劇作家を挙げて、


「人の生涯は〔……〕白痴の語る物語だ、がやがや、わやわや、やかましいばかり、何の意味もありはしない」
(『言語的創造としての隠喩』中の『マクベス』より)


というひと言が、「さながら長編小説の要約」のように読める(くらい深い)隠喩だと言う。
というのも、この言葉は他の誰かの言葉と簡単には取替えが利かない(くらいすごい)からだ。シェイクスピアだけが思いつけた、なけなしだけど、とびっきりのひと言。


で、そこでですよ。
僕らもいちおう文筆家の端くれの先っちょの崖っぷちなわけだから、
読み手の心を(笑いで・涙で・怒りで・感動で)大きく揺さぶるような、
そういう一文を書くことを目指しているわけだから、
何年も昔に流行ったような書き方はもう、
≪定番≫ってことにしてかなきゃしょうがないと思うのです。
ある時代の特に優れた人が編み出した書き方はもう、
≪ブランド≫ってことにしなきゃしょうがないと思うのです。


芥川龍之介まじ神だわー」
三島由紀夫を抱けるよ俺は。いざとなれば」
「私は誰よりも江國香織を愛している自信があるよっ」
源氏物語が、もう、大っ、好きぃ」


そりゃ、手放しに先輩を尊敬するのはいいけど、でも、
その先輩と同じことを数年後、数十年後にあなたが真似して、
それでどうなりますか?その先輩が喜んでくれるとかですか?


「ママー、アレてれびデ見タコトアルー」
「あー、うん。微妙。」
「また?今日もカレー?もう百二十年もカレーじゃん」
「え、うん。似合う似合う。似合うよ、似合う似合う。」


いい加減もう、
「まるで世界中の細かい雨が世界中の芝生に降っているようなそんな沈黙」
を生み出しかねない比喩は、箪笥にしまっておきませんか?
「人生の深淵について全身全霊を込めて苦悩する。これぞ、文学」
箪笥にしまっておきませんか?
「こんな不正と汚染にまみれた社会なんて滅亡とかしてしまえばいいんだっ!!」
箪笥にしまっておきませんか?


田舎で自宅でごろごろしてる時とかならともかく、
東京の一流ファッション誌に載りたい人の服が、
お気に入りの雑誌の読者モデルの中途半端なコピーだと、
ちょっと、どうかな?って思いません?
そのまま人前に出るのとか恥ずかしくないですか?


誰にも見せない自分だけの趣味として小説を書くならともかく、
業界では名の通った雑誌に載りたい人の文章が、
お気に入りの小説家の中途半端なコピーだと、
ちょっと、どうかな?って思いません?
そのまま人目にさらすのとか恥ずかしくないですか?




……。




けどこんな風に流行の最先端追いかけまくってると、
知らないうちに原宿とかを歩いてる奇抜な服の人みたいな、
なんだかよくわからない格好になったりするんだよね。
ってだけならいいけど、そのうち、気になりすぎて、
うっかり外にも出られなくなっちゃうんだよね。


ほんと、おしゃれって難しい。