どの角度から見ても中肉中背なんですね。

古本屋で現代詩手帖2月号(1991年版 \100)を見つけました。


ちょうど同人詩誌特集をしていて、
当時発行されていた同人詩誌のインタビューとか、
鈴木志郎康さんが語る『創造力の生成の場としての同人誌』
とかが載っています。


いまやすっかり詩壇の長老になられた
谷川俊太郎さんや吉増剛造さんの詩が載っていたりして、
同時代人でもないのに懐かしい気分になったりする。
鈴木志郎康さんなんか、


「今も、ハイティーンの頃から詩を書き始める人は多い。わたしも、四十年程前に詩を書き始めた。しかし、環境は今とはずいぶん異なる。いきなり、パソコンで詩を書き、パソコン通信に詩を発表する今どきの少年たちは、将来どんな詩を書くのか、見当もつかない。」


と言っていて、けどでも、
「パソコンとか携帯がない二十代を生きることはたぶんないだろう僕らのなかにも、意外に古臭い小説書く人がまだいっぱいいますよ。(100年遅れの芥川龍之介とか、10倍に希釈した村上春樹とか、酔狂でぎこちない擬古文書く人とか、平野啓一郎さんとか…)」なんて僕が思っていると、


「でも、詩はますます多く書かれるようになるだろう。非常に安易に書かれる詩と、緻密に念を入れて書かれる詩との差はかなりなものとなるように思える。その詩が緻密に書かれるためには、それなりの意識の道筋を辿らなくてはならない。」


と書いてて、正直、冷や汗をかきました。気をつけます。はい。


あとそれから面白いのが、


《今は同人誌の活動しにくい時代といわれていますが、そうした時代のなかで同人誌の機能日と役割、あり方についてどうお考えですか。また、今度どのように運営、展開してゆこうとお考えですか。》


という思潮社からの質問に対して、それぞれの同人詩誌がこんなことを書いている。
(雑な切り出し方ですみませんがご容赦下さい)


「全てのものが相対化され不透明な時代にあって」


「知の限界を含む世界の複雑さ、混沌を了解し、体の細胞を開くようなグローバルな視点で広く世界に眼を向けていく書き手が」


ワープロの普及によって画期的に雑誌作りがやりやすくなった面がある。」


「いろんな権威がまだまだ偉そうにしているが、そんなのは気にしないで、また頭でっかちになりがちな雑誌の存在理由なんかにも未練を残さないで」


「経済的な自立を無視したままで続けてきたが、そろそろ限界かもしれない」


「『私たちは孤立へ孤立へと向けて雑誌をつくっているような気もする』という言葉が、この詩誌のいま置かれている現状を」


「役に立たないものがあってもいいと思う。それイコール価値のないもの、ではないと思うから」


「書きたい欲望があり、それを形にしていくだけ」


(文学青年の思考回路は変わらないなぁ、なんてのほほんな感想持ってていいのか?)
(いい加減に考え方を最新版にupdateしないと同人誌はどんづまりじゃないのか?)
(漫画同人とかゲーム同人とか音楽同人はどうなんだろ?)
(この人たちみんな頭角を表しきれずに、いまも細々活動してるんだろうなぁ)
とかけっこう色んなことを思った。


現代詩フォーラムっていう個人運営のサイトがあって、
ネット詩人と呼ばれている人たちでそこそこ賑わっているようだけど、
文学フリマもまだ微成長を続けるだろうけど、
短歌とNHKとふかわりょうの取り合わせは絶妙だけど、
俳句界の動向に僕はまったく無知だけど、
はてな論壇とか京大エロゲー論壇みたいな新名所もちらほら耳にするけど、
ケータイ小説は一時期の交換日記とか新人賞投稿とか教室の机に彫られた女子高生の恋愛詩とか和歌とかみたいに一過性の局地的な青春消費活動として収束して行くんだろうけど、
書評ブログの山から才能の塊が見つかる可能性はかなり低いのかもしれないけど、


いま小説を、詩を、批評を、書評を(お金を貰わずに)書いているみなさん、
あなたは、誰に向けて文章を書いていますか?


言い換えると、いま書いているそれを、誰に読んでもらいたいですか?