非凡な人≠非凡な小説が書ける

ある人の曰く。
「自分がこれから人前でしようとするボケが、
面白いか面白くないか判断できないと、
お笑い芸人としては致命的なのに、
小説家がこれから人に読ませようとする小説が、
面白いか面白くないか判断できなくても、
「ゲージュツですから」
「ブンガクですから」
とか言って罷り通る現状はちょっとあり得ない。」


さらにある人の曰く。
「大学の文学部に入ると、「解釈の多様性」なんて言葉を
しょっちゅう耳にするようになると思うけど、それは別に、
話し手が発話に無責任であって良いとか、
聴き手が話を自分の都合のいいように捉えても良いとか、
そういうんじゃない。」


その人の例えて曰く、
「今日も好い天気ですね」と挨拶されて、
(晴れてるからね)と思うのか、
(や、曇りですけど)と思うのか、
それは人それぞれである、という程度の意味で、


「今日も好い天気ですね」と挨拶されて、
(≪今日≫という語は≪現代文学≫というtermに於ける≪現代≫の再解釈に向けた明確な意思表示であって、この小説を日本文学史の流れのなかで再定義する際の一種の暗喩として機能している。また≪天気≫という語が≪転機≫と同音であることは自明だが、ここで言う≪好い転機≫という語は、作者が自身の小説へ向けた倒錯的な批評ともなっている。小生がこの二点を鑑みるに、作者がこの小説を、『現代文学』の枠組みを再定義する為の好い転機として社会へ汎く訴えようとしていることは間違いないであろう。)なんて思って、


「いや、私は≪今日≫の≪天気の好さ≫については一考の余地があると思う」
とか答えるのは、変だ。
(だってこの人、もともとの言葉を歪めて受け止めてない?)


……。


自分の小説の面白さ、読ませどころくらい、
せめて自分だけでも把握して、護ってやりたいものですね。