つまらない小説=つまらない書き手ではありません。

今日からちょっと合評会の話をします。
今回は、その下準備を。


前回まで岡田利規さんの小説の文体をいじくっていたのもそのためです。


前回僕はこう書きました。
僕らは別に岡田利規さんや平野啓一郎さんと、
直接会って深い話をしたでもないのに、
この二人が小説において「大切」だと思っていることの違いが、
小説をちゃんと読んでみると思いのほかハッキリ分かる。


なぜか。


計算ずく?
二人とも読み手がそういうリアクションするのを予測済みなのか?


そんなことないと思う。
もちろん小説家は自分の書いた小説を誰よりもよく知っているけど、
それは田中さん家の長男のことは田中さんの奥さんに聴かなきゃね、
くらいのもので、
田中さんとこの奥さんにだって、長男が何考えてるか、
よく分かんなくなる時がある。
てか、よくよく考えてみると、たぶん全然分かってない。


小説家が書いた小説にしても、
「確かに自分のお腹を痛めて産んだ子だし、
つきっきりで手塩に掛けて育てて来たけど、
いざ一人前になってみると、
なんか思ってたのと違う感じになっちゃってね」
なんてことはザラだ。
そしてそれは育て方の間違いとかじゃなくて、
そうなるべくして育った小説だったのだと思ったほうがいい。


話を戻して、口癖についてちょっと書きますと、
最近ではもう野球中継だけじゃなくて、
テレビで放送されるスポーツ中継のほとんどが、
実況中継するアナウンサーと解説者の二人組でお伝えされる。
(僕らは意外にスポーツを「見てる」んじゃなくて、
「聞いてる」のかもしれないなとか、そういう感想はともあれ)


そういう野球中継なんか聞いているとたまに、
「つまりですね」「それはつまり」「要するに」
と要約系の言葉をやたら連呼する人がいる。


そういうサッカー中継を聞いているとしょっちゅう、
「行けぇ!」「あっ!」「おぉっ!」「よしっ!」
と燃焼系の言葉をやたら連呼する人がいる。


本人たちもたぶん気づいてないのかもしれないけど、
口癖にその人の物の見方がくっきりあらわれてて面白い。


他にも例えば、
軽はずみに男性器名を連呼する男性(7歳)とか、
あぁ何にも考えずに連呼を楽しんでるんだな、とか思う。


で、この「何も考えずに」という所が今日の話の急所です。
つまりですね、要するに、それはつまり、ひと言で言うと、


口癖は思考の癖の表れだ。
ということかな、と。


その人が「大切に」思ってることって、
その人が「素の時に」いちばん好くわかる。


「素の時に」→「腹を割って話をしてる時に」
とするともっと分かりやすいかもですね。


その小説の書き手が言葉にしたかった、
思い、情景、場面、できごと、会話、思考、気持ち...etcを、
読み手がちゃんと受け止めることが読書なのだとすれば、


読み手側も、
その小説が何を言葉にしようとしているかを、
注意深く耳を傾ける必要がある、ということです。


というのも、小説を書く・読むっていうのは取りも直さず、
腹を割って(自分とor誰かと)話をすることなんです。
(と知った口を利くのも今日が最後だ?)


逆に言えば、書き手側だって、
ちゃんと自分の言葉に耳をすませてくれる読み手に向けて、
ちゃんと相手に届くような書き方で、
小説を書こうとしたほうがいい。


でもってそうなると、
小説を書くにあたって考えなければならないことが、
ひとつ増えるわけですね。


僕たち小説家(予備軍)は、
「何を書くか」だけじゃなくて、
「どう書くか」を考えなくちゃいけないわけです。