ためらいながらにフリータイム「3」

ちょっと、いまPCの前で、↓の体勢をしてみて下さい。
「わたしの体は、また仰向けに近い体勢に戻っていた。
右脚の膝を立てていて、外側のくるぶしを、左足の左脇の、
膝の皿の周りの窪みのあたりと今にも接しそうな位置に置いていた。」
(『私の場所の複数』より)


どうですか? 出来ました?
出来ない? ちゃんと読んでる?
仰向けに近い体勢で、
右脚の膝を立てて、
外側のくるぶしを、
左足の左脇の、
膝の皿の周りの窪みのあたりと、
今にも接しそうな位置に、
置くんですよ?
出来ない? ひょっとして、運動不足?


まぁ、じっさいにPCの前でするしないは別にして、
頭のなかに「わたし」の体勢がちゃんと
思い浮かんだろうと思います。


姿勢をまだ崩してない人は、
そのままの姿勢で読み進めて欲しいんですが(笑)
岡田利規さんの小説、
こういうミニマムな物事の描写が、
恐ろしく正確で無駄がない。
他にも、


「大学ノートの右上の隅の部分は、
 くせがついていて、
 表紙のボール紙も含めてすべての紙が、
 耳かきの先端のカーヴと同じくらいの度合いにめくれ上がっている。」
(『フリータイム』より)


大学ノートがカーヴしてる様が頭にちゃんと浮かぶ
(どうやらカー「ブ」ではないようだ)。


例えば、こういう文と読み比べてみる。
「『……なぜだろう?』
 博多行の新幹線〈こだま〉は、新下関駅で、後続の〈のぞみ〉の通過待ちをしていた。
 沢野良介は、進行方向を背にして、向かい合わせに設えられた座席の窓側に座っていた。
 正面には三歳になる息子の良太が、隣に座る妻の佳枝の膝を枕にして眠っている。」(『決壊』(平野啓一郎)より)


さて。ここで質問です。


1.良太の顔はどこを向いていましたか?
佳枝を見ている? 佳枝の股間を見ている? 良介を見ている?


2.良太の足はどうなってますか?
椅子に座った姿勢のまま(腰から下は地面に垂直)ですか?
体育座りみたいにたたんだ脚が椅子に(多少お行儀悪く)乗っていますか?
靴は履いていますか?


3.同じように、良太の手は?


4.そんな細かいこと訊くなようっとうしいなぁ、とかですか?


……。


ひとつのことが指摘できると思います。
岡田利規さんの小説は、引用したような細かな姿勢の差も、
きっちり描写されるべきだ、という書き方をしている。


一方で平野啓一郎さんのは、そんな細かいことより、
『……なぜだろう?』のほうが大事だ、という書き方をしている。
新幹線も妻の佳枝も息子の良太も、
とりあえずそこに在る・居ることが分かる程度の、
あっさりした書き方で描写されている。


事実、平野啓一郎さんの『決壊』ではこのあと連続殺人事件が起こります。
そりゃ、子供の寝る姿勢なんかよりずっとヤバいだろう事件ですね。
だって、身近な場所で続けて人が殺されるわけですから。


一方で岡田利規さんの小説『私の場所の複数』は、
このあと「わたし」が自分の部屋から出ることもなく終わります。
小説が進むなかで「わたし」は、
携帯の震えとか見ず知らずの人のブログとか、
バイトに行っている夫のことを考えたりしますが、人は死にません。
どちらかと言えば、頑張って生きている。


さて。最後の質問です。


5.私たちは別に岡田利規さんや平野啓一郎さんと、
三者面談をしたわけでもないのに、
二人がそれぞれ書いた小説論を精読したわけでもないのに、
この二人が小説において「大切」だと思っていることの違いが、
思いのほか鮮明に見えてきませんか?
そして、それはどうしてでしょうか?(つづく?)