ためらいながらにフリータイム「2」

「わたしたちはかつて、観客の一人から、あれは確か、なにかのレパートリーを上演した、その終演後に観客との質疑応答の機会がもうけられたときだったか、あるいは公演のときではなく、劇作家か演出家のどちらかが、なにか公演のイベントに出演したときにだったか、以下のような質問を受けたことがあった。あなたたちのやっていることは、演劇、とは呼べないのではないでしょうか。なぜなら演劇、とは、劇を演じる、と書くわけだけれども、あなたたちのには、劇、つまりドラマがないし、役者たちだって、しっかりと役を演じる、ということはしないで、ある作中人物が出てくるにしても、その人物についての話を第三者的に話して聞かせる、といった程度のことをするだけですよね? だからそれは、演じている、とはいえない。少なくともわたしにはですね、あなたたちのやっていることは、演劇、ではなくて、パフォーマンス、とでも呼ぶべきものに思われるんですね。しかしながらあなたたちは、自分がやっていることを演劇と、どちらかといえばはっきりそう称しているわけです。それはなぜでしょうか?」(『フリータイム』(岡田利規)より)


連載中の小説を論じてはいけないという、
暗黙の慣習がブログ界にはあるんでしょうか。


それとも、みんなそんなことするほど暇じゃなくて、
(だって読むべき本はこんなにもたくさんあるんだから!)
書籍として未刊行の小説なんて、評価の定まらない文章を、
論じるなんて、しないよ、とかでしょうか。


宿屋めぐり』(町田康)が雑誌で連載していた時は、
誰も「うん」とも「すん」とも言わなかったのに、
分厚い単行本になった途端に、
「ケッサクダ!」「ケッサクダ!」と大騒ぎするのとか、
なんというか、そういうものなんでしょうか。


著作権に引っかかるとかでしょうか。
(でも、著作権法32条にはこう↓あるから、法的な問題は、ない。
「公表された著作物は、引用して利用することができる。
この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、
かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で
行なわれるものでなければならない」。)


ピストルズ』(阿部和重)について誰も何も言わないのは、
どうしてなんでしょうか。連載中だから、著者さんに、
余計な気を使わせてしまうかもしれない、とかでしょうか。
(なら雑誌連載なんて要らない? 『朝のガスパール』は?)



という枕で引き続き今日も岡田利規さんのことを書きます。
というのも僕の予想では、
このブログには少なくとも三人は読者がいるはずで、
その三人に(もっといたらその人たちにも)、
ちょっと訊いてみたいことがあるのです。


……。


僕は以前、NHK教育テレビで放送していた戯曲『フリータイム』を見ていて、
この人が書いた小説もほとんど読んでいる。
とはいえこの人の以外の演劇を観たことないから、
ここに書くことは素人の感想の閾を出ないけど、
僕は「岡田利規」について多少のことを知っているわけで、
『フリータイム』も下知識アリで読んでいるわけで、
そういう先入観(?)有りだから、こういう↓読み方になる。


「あなたたちのには」という書き方は稚拙に見えるけど実は
ものすごく厳密で正確な言い回しだよね。とか。


「どちらかといえばはっきりそう称している」
という書き方は、ありがちに「文学」っぽい書き方から、
軽やかに身を交わしていて、言葉の揺らぎをちゃんと考慮してて、
好いね。とか。


安直なノベライズじゃなさそう。「ちゃんと」書かれてる。とか。


既作のエクスキューズから始まる文学もあまりないよなぁ。
ドン・キホーテ』の続編とか、『新古今和歌集』とかくらいかなぁ。
あ、でも僕が去年『わせぶん読本2008』に書いた『木木木漏れ日』は、
同じ手法で書き出されているかもしれない。とか。


その一方で「岡田利規」をまったく知らなかった人が、
いきなり『フリータイム』を読んだら、
どういう印象を受けるんだろう。
≪これまでのあらすじ≫みたいのが無いからとっつきづらいのか。
そんなの関係なくすんなり読めるのか。なんて思いまして。
どうなんでしょう?


というわけで、
僕のブログを読み、
且つ岡田利規を知らず、
且つ『フリータイム』をちらっと読んだ、
という稀有な方がいらっしゃいましたら、
是非ともその感想を教えて下さい。


↑まで書いて下書き保存しました。
昨日妹には「また最初から書けばいいじゃん」
と言われました。(つづく)