「読書会」の周辺をぐるぐるする

昼過ぎに起きて「いいとも!」を見ながら、
半年ぶりに実物を目にした新聞のテレビ欄にやたらと多い
「(秘)うんたら」「(秘)なんたら」の数に驚いていました。
世界は神秘に満ち溢れているんだね。




さて。この間から青木淳悟さんの小説を褒め(れてない)続けてきたのにも、
それなりに伏線というか見通しみたいなものがありました。
そのことについては後で書きますが、
青木さんの小説について、前回なおざりにしてしまった分析を強引に短く言うと、
こんな感じになります。


「〜はーた。」というオーソドックスな「型」が使われているのに、
そこで用いられている言葉にぜんぜん実体がない、掴みどころがない、手触りがない。
「ある程度人生に見通しを立てた複数の人間」という言葉が、
具体的にどこの誰を指しているのかこの時点では分からないし、
「東京都内に新たな住居を探し求めていた。」という行為の内容もぼやかされている。




ふつうの人がふつうに使うような、
さして難しくもない言葉を並べることで出来ているこの一文。
これを読んだ時の感触は、喫茶店や定食屋で料理を待っていると、
隣に座った見ず知らずの人が店主に、
「あの人があそこで、なんと、あれをしていたんだよ!」
と言う話をするのが聞こえた、という体験に似てるんじゃないか。


というのも、この小説にはどこか、
「『自分には関係ない他人の話』をたまたま耳にしただけで、
それについて知ったような顔をして喋る」
という人の話を聴いている時のうさん臭さがある。
「『自分の実生活には関係ない他の世界の話』をたまたま思いついて、
それを知ったような顔で書く」
というやり方で小説を書いている時の後ろめたさを僕は感じてしまう。




(ここまでの一連の青木淳悟への提灯記事のオチとしては、こう書くことで、
別にこれはいつ書いても良かったのかもしれない。
「こんな風に、一編の小説の一行だけを取り上げても、そこに腰を据えていろいろな事を考えながら読めば、意外に色んな発見がある。一人で考えてこうなんだから、みんなで考えれば、もっとすごいことになる。そういうことを口頭で時間をかけてするのが読書会で、参加者の体調とか準備量とか話の膨らみ具合とかで、面白くなったりつまらなくなったりするけど、そういう感じのことを早稲田文芸会でもしています。 少しでも興味を持たれた方は、ぜひ一度、読書会へお越し下さい。四月の全ての土曜・日曜には、読書会や合評会を企画しています。」
ひと言で言うと、僕はここまでの文章を、このブログを読んでくれた人が
「読書会」を疑似体験できるように書いたつもりだったのです。)




「このあいだ東京でね」で採用されている書き方の胡散臭さの話に戻ると、
ある程度人生に見通しを立てた複数の人間が東京都内に新たな住居を探し求める過程を書くことで、この小説は成り立っているわけなんですが、読み進めていくと、所々「ずれ」が見えてくる。




新潮社のホームページで冒頭が立ち読みできるので、
http://www.shinchosha.co.jp/shincho/tachiyomi/20080807_2.html
暇があればちょっと覗いてみて欲しいんですが、
この小説には、「私」がぜんぜん出てこない。
高橋源一郎さんという眼鏡が似合う人が、単行本「このあいだ東京でね」の書評でこう言っています。
青木淳悟の小説が「ふつうではない」ように思えるのは、まず「私」が出てこないことだと書いたが、ちゃんと「私」は出てくる。けれども、この「私」は、「ふつうの小説」の「私」とはぜんぜん違うのである。」
http://www.shinchosha.co.jp/shinkan/nami/shoseki/474103.htmlより)




我らが愛すべき「迷探偵タカハシさん」は、このあと話題を「私立探偵」方向に持って行きますが、ここではもっとシンプルに「各文に主語を補う」という手法を使うことにします。
受験古文の効果的な読解法として大手予備校で盛んに喧伝されているあれですね。


例えば二文目。
都心部だとか、またそれに近接した地域に住まいを持ちたいと希望している。」

文脈的に妥当と思われる「ある程度人生に見通しを立てた複数の人間」と、「私」を補ってみると、
「私は、都心部だとか、またそれに近接した地域に住まいを持ちたいと希望している。」(1)
「ある程度人生に見通しを立てた複数の人間は、都心部だとか、またそれに近接した(ry」(2)


読むからにおかしい。(1)も(2)も地球人の口から発せられた言葉じゃない感じがする。
「I hope to have the residence in the central area of Tokyo and the region that is adjacent to it. 」
「Those who set up prospect to life some degree hope to (ry」
を日本語に逐語訳した感じ。気味が悪い。


他にも、読み進めていくとこんな箇所がある。
「ちょっと話を聞きに来ただけなのになあ。ちょっと見に来ただけなのになあ。」
権威的ではあるが大した有用性もない小説内用語の網羅的分類法に拠れば、これは内面描写だ、ということになる。
分かりやすく言えば、「気持ち」が書かれているところ。


けどやっぱり、「ある程度人生に見通しをつけた複数の人間は〜と思った。」
と言葉を補うと、ちょっとおかしい。
もしこれがふつうの言葉遣いなら、
「私は〜と思った。」と書いてあればしっくり来るのに。
育ち方も考え方も暮らし方も異なる大勢の人が、
みんな揃っておんなじタイミングでおんなじことをしているみたいで、
しかも誰もそのことにハッキリとは気づいてないみたいで、すごく気味が悪い。




こういう気味の悪さが、「このあいだ東京でね」には溢れている。
というか、この「気味の悪さ」を、実社会から生(ナマ)のまま取り出すことにこの小説は成功している。
(ほんとうにそうなっているかは、この小説を読んで確かめて下さい。)


そこですかさずオチ。
「早稲田文芸会では、こういう、お金にも資格にもならない「読書会」というイベントを、
 主催者の気が向いた時にしています。四月にもするから、是非、来てね。」








P.S
僕が唯一いちゃもんをつけるとすれば、
この小説には後半になるとちゃんと「私」が出てくることで、
そんなことしなくていいよ、「ふつうの小説」っぽくしなくてもいいよ、と僕は思った。
円城塔さんがいつだか書いていた「いわゆるこの方程式に関するそれらの性質について」を読んだ時も思った。)


けどもしかすると、書き手の青木さんがこの「気味悪さ」に耐えられなかったのかもしれないとも思う。
2008年9月に僕は、この小説の「型破り」具合と、読み慣れるとむしろ心地好いこの「気味悪さ」とに引っ張られて、図書館で独りずっとこらえ笑いしながら読んでいたんですが、ふと時計を見ると確か20時で、僕も「このあいだ東京でね」の展開みたいに、(お家に帰ろう)と思ったのでした。