失礼な読書

合評会に臨む姿勢について、というか、
文章を読む時の最低限のマナー一般について思いついたことを書きます。
これくらいのこと、文芸作品を読む上で考えないほうが無礼なくらいで、
今さらしかも公に向けて書くのもちょっと寒いとは思いますが、念の為。


以下、文芸サークルに所属して小説を読む場合についての記述ですが、
読み手の方で適宜「置き換え読み」して下さい。
詩、批評、演劇、音楽、映画、漫画、アニメ、ゲーム、AVとかへもたぶん敷衍できるかな。

書き手・作品・他の参加者に最低限の敬意を払いましょう。

「芝居とは最高のものでもしょせん実人生の影にすぎぬ、だが最低のものでも影以下ではないのだ、想像力で補えばな。」(『真夏の夜の夢ウィリアム・シェイクスピア小田島雄志訳)

対象作品はなるべく事前に読んで来てください。
どんなに酷評しようが、嘲笑しようが、激賞しようが、読まずに無視するよりはずっとマシです。
逆に言えば読まれることを意識しないまま文章を公にしてはいけない。
文章をどこかに発表するということは、ありとあらゆる非難・賛嘆・中傷を受けかねない行為だということを知ってください。

「これらの学問すべての、そして一般に(神学や哲学の思考の端緒をもふくむ)人文研究の思考すべての第一次的与件としてのテキスト(書かれたテクストおよび語られたテキスト)。これらの学問や思考が唯一よりどころとする直接的現実(思考と体験の現実)は、テキストである。テキストの存在しないところには、研究と思考の対象も存在しない。」(『言葉・対話・テキスト』ミハイル・バフチン。たしか桑野隆訳)

書き手ではなく、書かれたものを念頭に置いて合評しましょう。
僕らが文芸作品を読むとき相手にするべきなのは、書かれた(or語られた)文だけであって、それ以外にはない。
本文に書かれていない書き手の人格や思想、主張、意図、人生は考慮に入れなくても良いどころか、そもそも入れるべきではない。

「他人を弁護するよりも自己を弁護するのは困難である。疑うものは弁護士を見よ。」(『侏儒の言葉芥川龍之介

だから、書き手の意に反する読みをされたとしても、小説の主人公や物語展開や表現へ過剰に自己投影して反論するのは意味がない。
少なくともその小説のためにならない。
そもそもつまらない小説=つまらない書き手ではありません。誤解なきよう。

だから読み手も、書かれたものから目をそらして過度に書き手の素性に言及するのは控えましょう。

「言葉についても同じことがいえる。「教える」側からみれば、私が言葉で何かを「意味している」ということ自体、他者がそう認めなければ成立しない。私自身のなかに「意味している」という内的過程などない。しかも、私が何かを意味しているとしたら、他者がそう認める何かであるほかなく、それに対して私は原理的に否定できない。私的な意味(規則)は存在しないのである。」(『探求Ⅰ』柄谷行人


言いたいこと、思ったことは、言葉を受け止める立場の人のことを考えたうえでどんどん言いましょう。どんどん言いましょう。
「とりあえず褒める」という姿勢は実はすごく失礼なことです。その人にとっても、自分にとっても、文芸全体に対しても。
「とりあえず貶す」という姿勢も同じようにすごく失礼なことです。


ある小説が面白いorつまらないと感じた、そのことを誰かに話すのであれば、
どこが・どうして・どんなふうに面白いorつまらないのかを考え、それを言葉にするのが大人。それが対話。
書き手が意図しない面白さも当然あるし、読み手が気づかない面白さも当然ある。


明らかに間違っていると思えるような言葉に対しても、無視とかそういうのはせずに、耳を傾けましょう。
出来ることなら優しく論破してあげるといいですね。